北海道を訪れました 1
漫画ゴールデンカムイから興味をもち、ずっと訪れてみたかった北海道。
子どもは1歳と4歳。中々遠出も出来ないと思っていたのですが、
「4月から頑張る気合いを入れに、北海道いってみる?」
と夫からの提案があり、
「行こう!!」
と家族初の遠出をすることになりました。
仕事の出張を、子どもが小さいことを理由に何度か断っていました。
本当は行って仕事がしたい。新しい場所に行ってみたい。見てみたい。経験がしたい。
そういった気持ちを押しつぶして、出来る仕事をしてきていたので、
もし、無事に家族で遠出をすることができたなら、今後、家族一緒に出張ができるのでは…
という期待もあり、
胸をいっぱいにふくらませながら、北海道へ向かいました。
飛行機の大きな機体に目を輝かせている子どもを見て、
新しいものを見るのって楽しいよね
と改めて感じます。
反して飛行機に乗ると、
飛んでいるということがよく分からないようで、
「外みてごらん!今飛んでるよ!!!」
とこちらがはしゃいでいると
「まぶしいー」
と窓をしめて、機内のモニターのアニメに夢中で、外には興味なしです。
知識があることで、初めて体感できることがある…という事かと、子どもをみていて思います。
今回は、北海道の中でも札幌と白老に絞り、訪れることにしました。
白老にあるポロト湖は、3月時点で半分氷が覆っています。
冬は全面が凍るので、湖の上でワカサギ釣りをするんだそうです。
白老にあるウポポイでは、アイヌ民族のものづくりを見学することができました。
小刀、衣類、装飾品など、どれも生きる為の意味のあるものを、周りの木々や、動物達、魚達から作っていく。それら木々、動物などの全てのものはカムイ(神様)とされているアイヌ民族。
ものづくりの中には、共生しているカムイへお供えものとしての装飾品や器も含まれていて、カムイから頂いた生きているものの一部を使い、敬意と、感謝を込めて、美しく精巧な工芸品として丁寧に仕上げていく。
ものづくりの在り方をみて、命の連鎖をみているような気持ちでした。
当時3000人ほどしかいなかったといわれる北海道のアイヌ民族。新しい場所を開拓して、より良い文明を築こうとした明治の和人。
明治期の偉大なものづくりと歴史の中で追いやられ虐げられたアイヌ文化との両方に想いを馳せた1日でした。
アイヌ民族について
縁もゆかりも無いアイヌ文化なのですが…。同じ日本列島に誕生したというくらいの縁でしょうか…。
ラジオや広告でさらっと知っていたゴールデンカムイの漫画を読んだ事をきっかけに、アイヌ文化に興味がでてきている昨今です。
漫画自体も、ものすごくおもしろいのですが、アイヌ民族の考え方、精神性に感銘を受けています。
すべてのものが神様(カムイ)であり、お互いに頂き、与え合いながら生きているアイヌ民族。
生きる為にクマの神様(キムンカムイ)に毛皮を頂き、肉、内臓をいただく。それを大切に頂き、生き、感謝する。今度は人にできる美しい工芸品や楽しいお祭りで、お礼をして、またこの地へ来て下さいねと伝える。
生きているサイクルが、人間の文化が、
滞ることなく繰り返されていく
大地も川も、植物も、狩猟により得た動物や魚も、神自身であり、その神から頂いたものと重みを大切に受け取り、自分達へと繋げていく
全ての神を敬いながら、大切に生きている
自然界のサイクルが、精神性に浸透しているかのような
狩猟により命を頂き、
植物の恵みを蓄えながら過酷な冬を生き抜く
生きていることや命の重みを体感し、享受しているアイヌ民族。
自然のサイクルを受け入れ、尊び、生きているのが、とても心に響きます。
自身の作品は、流れゆく、留まらない自然をモチーフにし、反して留まる気持ちにフォーカスをあてる、水溜りのような作品制作を行っていますが、その行為はある種、悲しみを見つめるような、ネガティブな側面があるような気がします。
タイトル 雪溜まり
2012 個人蔵
アイヌ民族の命を与えられ、感謝し、返していくという、留まらないサイクルには、どこかほっと安心するような気持ちがします。
余談ですが、言語はその国の民族が大切にしているものや価値観が言葉になっていると思います。
英語には細かい食肉の名前があること
日本語にはきのこの名前が多いことなどからも
その文化で欠かせないものと言うことがわかります。
欧米人は胃が発達し、日本人は腸が長いのも、言葉とリンクしていることは面白いです。
反して名前がないものは不必要であったのでしょう。
アイヌ語にはクリオネに当たる言葉はなく、猫も、メコ(寒くて死ぬもの)という言葉があてられ、猫自体にはアイヌ語がないようです。
どちらも食べられないですもんね。
アイヌ民族の生きるサイクル上にあるものに名前がついているという
言葉からもなんだか"生きる"を感じます。
ジェンダーについて
ニュースやネットでも見る事の多くなったこの文字。金沢でも、ジェンダーフリーやLGBTQのデモ行進を見かけるなど、このことについて考えるきっかけが増えています。
私は展示会会場で
「作品をみていて、男性作家さんが作ったのだと思いました。」
とびっくりされることが多くあります。
昔は美術作品の多くが男性作家作であったからなのか、
ガザガサした質感の、大きなガラス作品に男性的な何かを感じたのか…
反して、ラインを意識した花器や小さな器などは
「女性ならではのラインですね。」
「女性らしさを感じます。」
と声をかけてもらいます。
こういったイメージも、男性はこうである。女性はこうである。という決めつけから生まれているのか、はたまた生物学的な男女のイメージから生まれているものなのか。
男性的らしく力強いとか女性らしく繊細、といった言葉も、今後はしっくりこなくなるくらい、男女のイメージは変わっていくのかもしれないなぁと思ったりします。
私は
男性的な作品といわれても、女性的な作品だと言われても、とくには嬉しいとも悲しいとも、何も感じないでいます。
私から出た形が、受け取り側のどこかに位置された
というだけですから。
ジェンダーに関しては、私の世代、親の世代、祖父母の世代でかなり考えや価値観が違うように思います。なので、その変化の世代にいた私もジェンダーという言葉にはいろいろと思うことがあります。
子どものころ、勉強をすることが苦ではなく、どちらかというとガリ勉をするようなタイプでしたが、祖父母には
女は勉強なんかしなくてもいい。家事をやりなさい。
ということを多々言われたことを覚えています。
それを言われるのがものすごく嫌で。
男なら頑張ることを応援してもらえたのか…?
地元飛騨にはいるものかっ(田舎だからこう言われると思っていた)
たくさん勉強してここを出よう。
と、一層がんばったように思います。
祖父母の言葉には、おそらく昔はあったであろう拘束力もなく、女であろうと、勉強を頑張らせてもらい、大学進学も支援してもらい、やりたいように進んできましたが、
もしかしたら。
私が女でなければ、または親世代だったら話は別であったかもしれません。
祖母は学校へ行っていなかったのか、文字を書く事が出来ませんでした。(そのことは覚えていませんが、実家の柱には左右が逆さまになったひらがなが柱の高い位置に書いてあったりしています)
祖母は祖父とお見合い結婚でした。
家をつぐ事。家の都合で結婚する事。家の為に進路や未来が決まること。
これらがごく当たり前で、絶対的であったのが、ほんの少し前の話。個人の意思、価値観など一体何処へやら。まして尊重するなんて。
私が大人になり、祖母が亡くなり、祖父と二人でお酒を飲むことが増えたとき。
「昔、好きな子がいたんやけどなぁ。結婚したかったけど、できずに、ばぁちゃんと結婚したんやぞ。」
と教えてくれることがありました。
同性婚が日本では認められておらず、悲しい思いをするカップルがいる現代ですが、昔は異性同性関係なく、みんな思い思いのパートナーと一緒になれないという。なんという時代なんでしょう。
晩年仲良く二人で旅行へいくことの多かった祖父母ですが、きっと結婚するときは、葛藤や苦しさを抱えていたんだろうなぁと思います。
戦時中で、個人の価値観で動くことなど、考えられない時代だったのかもしれません。
生き死にすら、指示で決められるような時代ですから。
時代は変わって、尊重し合い、自由に生きることができることを、出来る事が増えていることを、とても有り難く思います。それがまだ難しい国も、人達も、なんとか一歩一歩でも、自由の方向へ向くことを切に願います。
夫はとても家庭的です。料理は苦手なようですが、子どものお世話は夫がほとんど行っていて、
「お母さんは子どもの事何にも考えてないもんなー。」とか(そんな事はない…)
「予防接種もうすぐだよっ!忘れてない!?」とか言われてしまうこともしばしば(汗)
「おっぱいがでたらいいのに」とも。
仕事にいくより子どもといたいというタイプで、子どもが産まれてから、より家に居られるよう転職をしました。
子どもも、お母さんロスよりお父さんロスで泣きます。
私は自営業なので育休はありませんし、夫の会社は男性の育休がとれない会社ですが、子どもを育てるのは女性の仕事…という考えや価値観が社会的にもなくなると、もっと夫のような人は生き生きと生きられるのだろうと思います。
私はパートナーが夫だからこそ、子どもを持ちながらも仕事ができ、生き生きと生きられています。
私の授かった子ども二人は、女の子と男の子ですが、名前の響きはどちらもユニセックスな響きの名前です。
また女の子の名前には「鳳」(鳳凰の雄の意)の文字を、男の子の名前には「麟」(麒麟の雌の意)の文字を入れています。
男らしい女の子を望んだわけでも、女らしい男の子を望んだわけでもありませんし、それぞれの性別に否定的なわけでもありません。
どちらをどちらに使ってもとても自由でいいんじゃないかしら?
こんな考えのもと、名前を決めているので、丁度変化するこの時代にはいいのではないかと思っています。
2年の間に
しばらく文章にまとめることができていなかったので、久しぶりに文章に向き合っています。
2年の間に、いろいろな事がありました。私にも、世の中にも。
娘は2歳9ヶ月になり、もうすぐ3歳です。
歌って、踊って、絵を描いて。気に入らないことには、大癇癪を起こし、部屋から追い出されることも。パワフルに生活しています。
世界では新型コロナウィルスが猛威をふるい、外に出ること、人に会うことに躊躇するようになりました。マスクや除菌アルコールは手放せなくなりましたね。
想像もしていなかった世界です。
一時期は、展示会はほぼすべて延期。携わるイベントも中止。利用しているレンタル工房は閉所となり、保育園も休園に。仕事はできなくなりました。
もともとインドア派ですので、家に篭ることは苦痛ではないものの、えも言われぬ不安に襲われることが多くありました。
ここぞとばかりに、気になっていた本、読みたかった本を読み漁り、なかなか描けていなかったデッサンやスケッチを繰り返したり。娘と遊ぶ時間も多くなりました。それ自体は幸せで、仕事に時間をとられ、やりたくてもできなかった好きなことに時間をさけているはずなのに、ソワソワと落ち着かず、時に悲しみに襲われる日々。
こんな状況になって始めて
私を私として歩かせていたものは、
私を世と繋げていたのは、
制作であり仕事だったのだと。
痛いほどに思い知らされました。
私という、細い棒に
私だけでは立っていられない、とても細い棒に
少しずつ肉付けして、貼り付けて、
少しずつ太くして自立できるように続けていたこと。
それが無くなると、ぐらぐらと揺らぎ、崩れていくような…
とても怖い感覚でした。
経済的な問題だけでなく、精神的にも制作に支えられている事を思い知りました。
悲しいかな、その細い棒は、仕事以外のこと、好きなことや大切なものだけでは、支えられないようです。
ただ、
このコロナ禍の中、第二子を出産しました。
マスクをしながらのお産は、想像以上に苦しく、吐き気と息苦しさの中、もがきながらのお産でした。(吐血もしてびっくり)
高齢出産のため、より辛かったのかもしれません。
夫と共に、2歳と0歳の子ども達に振り回されながら、日々を過ごしています。
制作の仕事と、家族の時間を増やす為に、4年勤めた大学美術講師を退職しました。
削いだり、新しくくっついたり。
私という細い棒は、
日々変化する家族や仕事に肉付けされ、
私自身も変化しながら、
今日も立っています。
泣いているわけ
今となっては「泣く」という行為を1日の内に何回もすることはなくなりましたが、小さい頃を思い出すと、色んな理由でよく泣いていたなぁと思います。
できなくて悔しくて泣く
怒られて泣く
思い通りいかなくて泣く
この辺りが多かったように思います。不満が多かったなぁ…なんても思ってしまいますが、一歳になる娘をみていると、ほんとに良く泣きます。
頭をぶつけては泣き(痛いよねぇ)
やりたいことを遮られては泣き(危ないことはだめ!)
急に眠くなっては泣く(寝なよっ!!)
娘がまだ生後1か月のころ、泣くことに関して感じたことがあります。
娘が眠った隙に、シャワーを浴びていたときのことです。
娘の寝る小さなベットを脱衣所にもっていき、なにかあったら直ぐに見ることができるよう準備して、シャワー浴びようとしました。
ぎゃー
ぎゃー
シャワー室に入ってすぐ、洗髪をしている最中、泡だらけの状態で娘は起きてしまい、号泣。
あらー…起きちゃったかぁ…
ベットにベルトで固定してあるので、危ないことはないと思い、チラッとだけ様子をみてから、泡を落として娘のところにいくことにしました。
ぎゃー!!ぎゃー!!
「大丈夫だよー!!お母さん、ここにいるよー!!!」
ぎゃー!!!!ぎゃーーーー!!!!
おっきな声で呼びかけながら、急いでシャワーを終えようとしますが、娘の泣き声は力を増すばかり
顔を真っ赤にしてぐちゃぐちゃに泣き叫ぶ娘は近くにいる私の存在を感じないようでした。
まだ生後まもないころは、目はほとんど見えないと本で読んだことがあります。
生きていく上で重要度が低い感覚だからです。
私からすると、五感の中で、失うと不便で怖いと感じる感覚は視覚ですが、赤ちゃんにとっては後回しになる感覚なんだとか。
その代わり、一番大事で、最初に発達するのは触覚、味覚なんだそうです。
親に触れられることを感じる為
おっぱいの味を感じる為
何も見えなくても、何も聞こえなくても、それらがあれば、赤ちゃんは生きていける
そんな風にできている
昔行われた恐ろしい実験にこんなものがあるそうです。
複数(詳しい人数は忘れてしまいましたが30人くらいだったような)の生後まもない赤ちゃんに一切触れることなく、搾乳した母乳を与え、育てるという実験です。
そうして触れられることなく、育てられた赤ちゃんは1か月後には全員亡くなってしまったそうです。
触れるということ
抱きしめるということ
おっぱいを飲むこと
寝ること
息をすること
これらと同じように生きる上で必要なことなのだと
必死で呼ぶ為に泣いていたんだと
そう思いました。
今、近くでシャワーを浴びている状態は赤ちゃんにとってはとても怖かっただろうな…と思います。
(直ぐ近くにいるのに、)何もみえない
(大声で呼びかけているのに、)何もきこえない
もしかしたら、声の音はわかっていたかもしれないけれど、それがなんの音なのかわからなかったかもしれない
触れられない限り、何も感じられない
真っ暗闇の中
死と直ぐ近くの状態から
必死に生きることに向かっているような
持てる力や感覚が少ない分、
なんてシンプルな力強さなんだろう
体を拭き終わって、赤ちゃんを抱きしめて、おっぱいをあげて
ようやく赤ちゃんは泣き止みました。
たくさん泣いて
たくさん生きてほしい
そんな風におもいます。
ロゴ制作
5か月の我が子と令和になってから初の連休です。保育園もお休みなので、私も制作の手を止め、子どもと遊びながらパソコン作業をします。
ロゴをそろそろ…と試作しています。
染織作家さんの坂野有美さんに図案をお願いし、描いてもらったものをパソコンでいじりながら、どんなふうにしようか考えます。
私の名前でもある『詩』
ガラス工房の名前は『保木硝房』ですが、坂野さんは『詩』をロゴのモチーフに選んでくれました。
「すてきな字だと思って。」(坂野さん談)
私も、いくつか描いてもらった、文字(ロゴ)の中で『詩』がとても気に入りました。
詩は「ことば」であり、「うた」です。
言葉は言葉でも、科学の論文や報道の文章は伝達が終われば、事を終えます。
違って詩は、伝達の内容よりも、表現すること自体がその存在目的です。
用途だけで終わらない、ガラス自体が、心に響くよう"うたい"、表現すること。
プロダクトであれ、アートワークであれ、保木硝房はそんなガラスをつくる工房でありたい。
そんな思いを込めて、ロゴを決めました。
絵を描く事
新宿出張から帰ると、金沢は気持ちの良い春の空気感。犀川という川の川沿いの桜は満開になっていました。
保育園もお休み。私もお休みして、娘と過ごす日曜日。娘とお花見に出かけました。
普段工房に籠りがちなので、作品の事を外で考えるのもいいかもしれない。と、クロッキー帳と小さな鉛筆だけ持って、川沿いまで歩きました。
日曜日の午前中、風がふくと花びらが綺麗に舞い、心地のよい日です。
娘に満開の桜を見てもらおうと、ベビーカーから持ち上げてら花に近づけると、きょろきょろと重そうな頭を動かしながら、桜をつかもうと懸命に手をのばしていました。
はじめての桜にとても興味があるようでした。
あまりに綺麗で、心地が良いので、木陰に腰をおろし、しばらくデッサンをすることにしました。
目で見えた情報を頭の中に送り込んで、手に伝える。鉛筆を動かす。紙面に起こされたスケッチは、自分がこの世界をどう見て、どう捉えているのかを、目で確認させてくれます。
"本当にみえているかな"
絵を描くことがおもしろく、鉛筆や絵の具、ペンなどを使い、ひたすら絵を描いていた昔の私。がりがりと描き込むことに熱中した予備校時代。その頃の目的は、より上手くなって志望校に合格することになっていましたが、今思うと目の前に見えるものに真剣に向き合って、ひたすら紙に描くという行為は、制作においてすごく重要な、根本的な部分であったと感じています。
目で見たものを自分の中にインプットし、脳を介して、手を通じて、紙面にアウトプットするデッサン。
アートワークも、自分の頭の中にあるものを他の媒体にアウトプットする行為。その、自分の頭の中を構築するのは、五感からの刺激であり、インプットにより作られるイメージであり、思想であると思います。
インプットとアウトプットの繰り返し。紙面に落とす一つ一つの線が、五感からのインプットであり、脳からのアウトプットである。この行為はとても心地よく、また、すごく静かに、自分の世界の捉え方がみえてくる。
自分はどう見えて、どう感じて、どう捉えているのか…まるで再確認するかのような静かな時間。
デッサンやスケッチは、そういう行為であると思っています。
いつか、娘がなにかしらの形でアウトプットができるようになったら…。
その日が楽しみで仕方がありません。
はじめての桜に、わくわくして手を伸ばす我が子が、世界をどんな風にとらえているのか、感じているのか…
いつかクレヨンで壁いっぱいに描いて伝えて欲しいと思っています。